Dec 13, 2015

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u n i o n  c h u r c h
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12月の教会


1906年に建てられた古い礼拝堂にマリア像はなくて、白樺でつくられた十字架が飾られていました。
そして今のこの風景。
宗教や仕事、性別、時代、もっとたくさんの色々の事 . . . 何も問わない心の在り方を考えました。


夕陽は暖かく見えて、空気は本当に冷たかった。冷たいことが静かにしているような。
暖炉はなかったけれど薪を拾いました。
灯るかな、火。






Dec 2, 2015

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S t a b l e 
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馬小屋と暖炉



12月です。

馬小屋を飾りました。
子供の頃から聞かされた、クリスマスの話に出てくる小屋です。

大きな小屋ひとつ。小さな小屋ひとつ。
同じ場面の小屋だけれど、違う話が浮かんできます。

暖炉は難しいです...
馬小屋の為につくってみたけれど、ずっと眺めていても考えていても
嘘でも火が灯らない。
本当の暖炉を見てみたい。暖炉の側にいって、少しあたりながらみてみたい。
焚き木を拾ってきたらいいのかな...。


クリスマスとはどんな日なのだろう。

願いを知っていてくれる、いつもちゃんと見ていてくれる人がいるという事を知る事。
願いが叶うという希望を知る事。
それがサンタクロースが子どもたちにくれる贈り物なのかもしれません。



ちゃんと見てる。

ちゃんと見てる事を伝える日にしようかな。
宵の実の中で、たくさんの事をみています。


呼吸の仕方を忘れる程に駆け抜けている冬の始まりです。
あとは最後にカトレアの花を並べられたら、今年の仕事はひとまずお終いにしようと思います。




Nov 12, 2015

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A u t u m n
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色と秋


夕方、この部屋はこんなに暗くなると、秋になって気がつきました。
宵の空が此処にいる間に見られる季節です。
窓から見える桜の木の後ろで交ざり合う空に気づいて、ながくずっとずっと眺めてしまいました。
何か、知っている絵のようだったから。
この空を見かけたら、明日此処に行こうって、思い出せるような場所で在りたい。

少しづつ変わっていく秋の日間。
日差しは本当に綺麗で、正午を過ぎると入口から段々と中に陽が入ってきて、木靴はそれを浴びる。
でもほんの十分間程の出来事です。
そんなに急いではいないけれど、立ち止まらずに通り過ぎていく様。
それが消えたら硝子に映る影は色をなくして、その向かいを色があるものが横切った時、本当に不思議だった。
紋黄蝶がよく飛んできていました。
はっきりとした日差しは外の色までも変えていたけれど、日に日に柔らかくなっていきました。

朝に一階まで下りて、上って戻る非常階段と円い日向が好きでした。
秋の中つくり続けていられる時間も大好きでした。

花より果物を飾りたくなりました。
果物をのせていた器。
硝子の粉を型の中で熔融させて形をつくる、パート・ド・ヴェールという技法でつくられた硝子の器。
硝子の粉は触っても刺さらないのかな...
器は触ると石のベンチみたいに冷たいけれど鋭さはなく、ものの温度が揃った気がしました。
そう、この部屋は冬に暖かいってならない予感。暖かいのだけど多分、全部は緩まない暖かさのような。

これからの季節の為に入口に灯りをつけました。
線香花火みたいにじっと灯ってる。
それを見ていると秋なのに夏みたいで、いつかそれは落ちて、でも途切れながらも続いているもののたった一瞬みたい。

花壇に野葡萄を植えました。
宵の実が始まった場所から最後に受けとったのはこの野葡萄です。
挿し木で育つか不安だけれど、野葡萄の実は白から藍へと。取り残されたような色と。時間がつくる色と。来年の秋に。
綺麗な花も咲かせたいけれど。でも河原みたいな、野草とか。


残った野葡萄は床に並べた陶板に挟んでおきました。

水耕栽培を始めた球根。
球根は白いからといって白い花が咲くわけでなく、紫だからといって紫の花が咲くわけでなく。
道で見ている薄桃色だった夾竹桃の花はどんどん白に近づいているし。
色はふしぎです。
秋の植物のように、床も壁も石も、だいぶ色づいてきたな

此処にいて一番込み上げるようにすくわれるのは、
意とする想いや企みもなく、ただ真っ直ぐ同じ時同じ事を感じたという事だけの事が不意に起こる事。

真っ白な時にそれからの色を推してはかる事は耐えて、
でもだからこの場所にも、日々戸惑ったり優しくなったりするのかもしれません。

階段みたいな空をたくさん見た秋でした。 

秋は少しリズムが変わりました。





Oct 12, 2015

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A u t u m n
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Oct 5, 2015

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W i l d  I r i s h  R o s e
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野生のアイリッシュローズ


宵の実に向かう朝、ある曲を聴きながら桂の木を眺めていて、
もう少し寒くなったら香るかなとか。
その顔のすぐ横にごく自然にアオスジアゲハが飛んできて、
それがあまりにも自然だったので私も戸惑わず離れるまでの少しの間一緒に歩きました。
そんな朝から始まった秋。


母を喜ばせるプレゼントを贈ることは私にとってとても難しい事で、
でも今までで心の底から喜んでいたと感じたのがピアノのコンサートでした。
それから秋にはピアノのコンサートを贈っていて、
だからその日が近づいてくる秋はピアノの音を想い出し、聴きたくなります。


聴いていた曲。
アイルランドの古謡とも言われているけれど、作詞作曲をした作者がちゃんといて、
詞にまつわる話もありました。

歌ではなくピアノの音で聴いていますが、ピアノの音を聴きながら、
珍しくドレミでなく歌詞が頭の中で流れる曲です。
秋の宵の実で流してみようかなと思ったけれど切なくなりそう...どうだろう。

今日は一日この曲を流しながら料理をしていました。
休みが重なって誰もいない静かなこのビルの二階で、
扉を開けて、中と外の温度差と、秋の日差しがはっきり見えた。

夕方、果物を買いに出た。




もし聞いてくれるならば、可愛い歌を歌おう
今は萎れて枯れてしまった花についてのこと。
これは私にはかけがえがなく、誰よりも、
例えお互いが誇り高く上を見上げているとしても。

それはある知り合いの少女からもらったもの、
二人が出会って以来、信念をもつも、心安らぐことはなかった。
彼女はこの世で最も輝く星よりも素晴らしく、
彼女を、我がアイルランドの野薔薇と呼んだもの。


「 My Wild Irish Rose 」




花の事を考えていたから、野薔薇を咲かせたくなりました。




Sep 30, 2015

te



S u m m e r
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時間と夏


夏は何度も時間が止まった。
時間が止まったというより、一日という枠組みから外れた時間が不意にあったような。
それはとても優しくて、薄明るくて生温くて。
時間の上を歩く代わりに時間が身体に染み込んでくるような重さがあったけれど、
重たく感じるものではありませんでした。

この建物は映画館だったそうで、そのせいか外の音があまり聞こえず、
より包み込まれる感覚が大きいように思う。
夏は見えるのに夏の音は聞こえない。
この中に置いたものにもそう、季節はないかもしれない。
だからものが季節の音を発する事もなく、音を必要とすることもなく。
夏は、扇風機くらいかな...。
あと花を飾った時。
これからのその季節になったら置きたいものもあるのだけど。

時計の時間と違う時間。
刻むようではなくて満ちるとか欠けるとか、時計より大らかな時間に外れた時間は似ていました。
同じような時間がいくつかあっても、あの時間はこの夏だけみたい。

子どもの成長が早いと感じるのはその存在が愛であるからではないかといつか思った。
それと同じように大切な時間程過ぎるのは早くて、
外れた時間も早くて、
大好きな夏は早くて。
もうすっかり秋です。




Sep 29, 2015

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S p r i n g
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宵の実の季節の記録です。
三月の中旬からオープンまで、ほぼ毎日をこの部屋で過ごしていたので、
私はこの部屋の春を知っているはずなのだけど、今殆ど思い出せずにいて、
だから春は来年に書きとめようと思います。

今少し思い出せるのは、
しばらくの間積み重ねたままだった入口の床に敷いた石の上に座って
昼の時間を過ごしていた事。
作業の為に硝子には養生をしていたから擦り硝子を透して入ってくるような不透明な明るさに、
部屋の中はしんとしていて、白い石の粉っぽくて、壁紙を剥がしたままの壁と石が冷たかった。

あの人にはこんな席が似合うかな...色々な人の顔とか、
ここにはどんな景色がみえるのかな、と考えていた事。
このまま大工さんもいいなと思っていた事。
夢中になりすぎて空間が出来上がってきた頃にはもう達成感でほぼ燃え尽きていた事。

来年の春を、楽しみにしています。



Sep 14, 2015

te



f o u r  h o u s e s
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四つ目の家


最後の家です。
私はこの家に暮らしてはいないのだけれど、
宵の実の始まりはこの家です。

庭から、扉を二枚開くと目の前に広がる部屋で宵の実を始めました。
春が夏を迎える頃です。

庭には大きな木があって、それはとても特別に見えた。
鳥がよくやってきていたし、藍色が錆びたような色の実が生る木。
「宵の実」という言葉を考えていた時、頭のどこかにこの木もいたように思う。

沢山の人に訪ねてもらった家。
感じてもらえた時に、はじめて料理をつくれた事となるように感じた家。


場所が生まれれば、何かが自然に育つのだと思う。
差し出したいものはつくれるものではなくて、
差し出したいものが溢れでてくるような場所をつくること。
差し出したいものが溢れてくるような、そんな自分になってしまうこと。
ただそれだけの事なのかもしれないです。

だから色々な方から今、ありがとうとさようならを伝えてもらえているこの家は、
何て素晴らしい事かと思う。
この家を思い返す時、そういった方達の風景は幾つも浮かんでくるのです。

何かがなくなった匂いや景色をみて寂しかったり懐かしく感じるのは、
何かがそこに在った感触を知っているから。
今、あそこへ立ったなら、何が見えるだろう。


この家は、そこへ行きはしなくても、ただ在ることの美しさと、
安心感を感じていたかもしれないです。

この家へ通って下さった方々へ、
.....この家をつくってくれた人へ、
心から、   ありがとうございました。


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ひとつの家、ひとつの空間の中で、
巡る姿、纏いまつわるもの、流れるもの、在るものと在ることに交ざっていくものの
優しさとそのものへの愛おしさと。
それを感じること、そうしたら何か世界が広がったような。
その気持ちで見る今までの日常のなんて新しいこと。
溢れているものをみれる事。
豊かさのこと。愛のこと。
それは全部繋がっていたこと。

カフェでも食堂でもなく、
今の宵の実を「宵の実としたのはそんな可能性をもっと深く知りたかったから。
そこに、食事があってもいいし、何か物体でないものでもいい。
これがやりたい事の一つ目です。

時間がかかりそうだけど、どこかへ戻る感じはなくて、だから少しづつ進みます。
事の在り方が少しでも変わっていくといいなという想いと。

ここへ綴っていく事が宵の実の記憶のようなものになったら楽しそうだな...
瞬きしないと読めない程の、長い話になったらいいな。